俺と眼鏡と死後の世界
何を隠そう俺は眼鏡を着用している。結構長い付き合いで、視力が下がり始めた小学生高学年頃から、一週間とノーメガネな日はない。ちなみに彼女と付き合い始めたのも、眼鏡がきっかけである。斜め前の席に座っていた俺の眼鏡が気になって仕方なかったのだとか。もし結婚式でなれ初め話の一つでもしようもんなら、眼鏡の話題に終始することになるんじゃないかと今から心配しておる次第です。
さて、人間関係をすら眼鏡に依存する我輩であるが、物持ちが異常に悪い。眼鏡も例に漏れず、零号機、初号機、弐号機、参号機、その他数え切れぬ程の戦友を、大破沈黙させてきた実績がある。そうして眼鏡を買い替えるたび、今回こそは、と固く心に誓うのであるが、なんかもうだめみたい。次から次へ吹き飛びつぶれねじれはじけくだけ散る眼鏡たち。戦場で上司にしたくない人№1の称号も甘んじて受け容れよう。
まあ、それでもう何を言わんとしているか、賢明な読者諸氏はお気づきのことと思う、そうです、見事に破壊粉砕してしまったのである、今回も。しかも前回の眼鏡(受験期を共にした、親友)とまったく同じぶっこわれかた、すなわちレンズがフレームから外れてしまうという、地味な壊れ方である。いや別に派手さを求めているわけではないのだけれど、やっぱさ、ブログのネタになっちゃうくらいガッツリ壊れろや眼鏡とか思っちゃいますよね、てへ。
壊れたのが夜中だったので、翌朝購入した店に持っていくことにし、その日は英語の課題もできないので、仕方なくタモリクラブを見るべくテレビをつけた。が見えん。やべえ、洒落にならんよ、笑えんよ。そういえば、50cmより先の視界はボヤがかかるのであった。ならばと、がぶり寄るように画面に近づくも、そうまでして見たいかタモリクラブ、と心の声がおっしゃるのでやめる。
もう何一つできないので、あとは寝るだけよ、とロフトベットの梯子に足をかけ、一段目に体重を乗っける、とずるりすべって脛及び顎を梯子にぶつけてしまった。さらに痛さにつんのめりつかまった本棚が体重を支えきれず倒れてきて、ちょっとした惨事の現場になってしまった。精神状態が精神状態なら死を選んでもおかしくない。だがそこはもう我慢して眠りにつく。
夜が明けて、新しい朝が来ようとも、暗い気分は一向に晴れない。さらに道に出て気付いたのであるが、まっすぐ歩けません。 道とガードレールの区別ができません。夢の中で死の淵をさまよっているような感覚とでも言おうか、とにかく常人が経験しようがないワンダーランドと化してしまったのです現実が。
そんな状態でいつもの道を歩いていると、ついついネガティブなこととか考えてしまいがちなおれ。すなわち生前分与をどのように成すか、議題はその一極に集中したのである。眼鏡フェチの(将来の)嫁には、壊れかけの眼鏡を、娘には全財産を、息子には薄さ0.02mmの避妊具を。それぞれの必要に応じて考えていると、これはなかなか大変だなと思った。思ったのです。
ちなみに眼鏡は十五分で治りました。
俺と料金未納と弟
「月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人なり」、なんてもうしますなぁ。世の諸行無常と、それとは無縁になりえず、うつろいゆく己自身の時間。松尾芭蕉の嘆きのような、旅立ちへの想いがつづられた、奥の細道序の一文です。
いやあ、まったくです。時間というのは無常なものなのです。親父の頭に混じり始めた白いもの。オカンの声に混じり始めた重低音。弟の下腹部に生え始めた幼い産毛たち。三日前の飯なに食らった覚えとらん自分も。これ全部時間のせい、まじだりい。老化も更年期障害も二次性徴も若年性痴呆症も、これすなわちみなすべて憎むべき敵、時間の所作なのだと、俺はここに断言したい。断言せずにはおれません。
そのように時間について日ごろから憤りを覚えていた俺のもとに、一通の手紙が届いたのはきのうのこと。自分の利用するプロバイダからでした。曰く『支払いの期限が過ぎております。本請求書を持参のうえ、所定の振込み先に』云々。そして文章はこう締めくくられていたのです。『なお、料金の未払いにつきまして、遅延金が発生いたしましたので、その旨ご了承ください』云々。
(ああ!?なめとんのかコラと。なめんなと、宇宙の時間なめんなと。おまえはビッグバンがどんくらいまえの出来事かしっとんのかと、あまつさえ地球誕生は何億年前かしっとんのかと。それに比べたらおのれらが言っとる遅延なんぞ塵だっつうの宇宙の塵。おまえら塵のために無駄なインク及びプリンタ及び紙及びその他諸経費つかっとんのかこらぼけ)
今すぐオペレーターのねえちゃんに問い詰めたい心をなんとか抑え、俺は弟の部屋のとびらをノック(ガラス張りの引き戸なので、ガシャガシャと不快な音をたてました)しました。なぜなら、名義こそ自分のものになっているとはいえ、プロバイダ料金は弟が支払うことになっているのが我が家の鉄則、鉄の掟、血の盟約なのであります。
以下、わが家の会話抜粋。
俺「なあ、おまえ、プロバイダの料金、未払いだぜ」
弟「ふーん。わかった、払っとく」
俺「う、うん。頼むわ」
なんか最終的に弟にお願いする形になってる気がするのは俺が若年性痴呆症だからでしょうか。真相は闇です。
My Diary - March 2005
3/1 Tue.
今日が火曜日だということに意味を見出すとしたら、それは今日が火曜日であることを日記に記せるということくらいだろう。
皆さん、今日は火曜日である。
3/2 Wed.
友達の多いほうではないが、久しく会わなかった友人達の突然の来客や突然の連絡が一辺に来る日というのがある。今日はそんな日だった。
飲んだくれていた俺は、それら全てを断り、よだれをたらして眠っていた。
眠りこそ最良の友である。
3/3 Thu.
この日記に関していえば、一人称を俺に統一することにした。「僕」は性に合わない。
思えばブログというやつも、映画評というやつも性に合わない。性に合わないことをやっているのだから、ちょっとした仮面が必要なのだ。好青年「僕」の仮面が。
うわ、かっこわりい、すげえかっこわるいこと書いちゃった!
まいいや。腹減ったし。
3/4 Fri.
自分で言っておきながら、おおこれは名言かもしれないと思ったことば→「大衆は楽しい」
ですよね。
3/5 Sat.
日にちの感覚がなくなってしまうことがしばしばあるけれど、ご飯はきちんと食べようと思う。バカになってしまうのです、日に日に。
3/6 Sun.
創作日記を書きそうになる自分をなんとか押しとどめる日々である。今日生きていた証拠を提示でもしてもらわない限り、沸かない実感「ぼくはいきている」
暗い、根が暗いのだ。パソコンの前に座って「生きている実感てなんだろう?」とか考えません、明るい人は。
などと考えながら飲む酒のまずさよ、ひもじさよ。いつになったらおいしい酒が飲めるのか。酒の話題に収斂してしまう日記のむなしさよ、かなしさよ。
ああやべえ思考がとまらない。このへんで止めておこう、うへへ。
3/7 Mon.
「ああ幸せでよだれがでちゃう」そんな瞬間も俺にだってある。この日記が総じて暗いのは、そういうスタンスで文章を書くことに慣れてしまったからだ。みよ、私小説は総じて暗い内容ではないか。書くべきことは幸せではないのだ。もっと他にある。
ということで、今日の幸せをつたえるのは、主義に反するのでここには書きません。ああ、なんて幸せなんでしょう。
3/8 Tue.
吉祥寺をぶらぶらと歩いた。足は自然、井の頭公園に向かう。
ばかみたいによく晴れた公園。自然と目に入るカップルたち。不自然にそらされる俺の視線。
だがそらした視線の先に小さな花を見つけた。白い縁取りのピンクの花弁が、ちょこんと咲いていた。咲いていたのである。
3/9 Wed,
もしかして昨日の散歩ですか、この原因不明の鈍痛は。まさかもしやの筋肉痛ですか。歩いただけですよ俺。簡便してくださいよ、ほんと。
俺が明日死んだら、みなさんよく覚えておいて欲しい
。こんな二十歳の若者がいたことを。
追伸、死因が筋肉痛ってかっこいいかもしれませんね。
3/10 Thu.
まんがにはまってしまった。BECK。遅まきながら。全二十巻を、新品で大人買いです。
まんがに費やした、一万円(コミックス一冊500円×20巻)は、延べ1500本の焼き鳥をいい感じに焼いた対価に得たものだ。
鳥達の怨念を両肩に背負い、おそらく数時間後には読破されるであろうコミックスの山を眺め呆けている。そんな今日に乾杯。
3/11 Fri.
鳥の呪いだろうか。バイトがものすごい忙しさであった。ブロイラーに詰め込まれた鶏さながら、狭いカウンターをあっちゃこっちゃいったりきたり。
発狂したら「鶏に憑かれたのです」と言おう。お医者さんも、きっと分かってくれる。
3/12 Sat.
同窓会があった。俺は、二十歳なのだなと改めて思う。だって、みんな肌荒れひどいんだもの。
次回会うとき、死人が出ていないことを切に願った。
3/13 Sun.
ほろ酔いで、地元の友達の家に一泊した。毎日のように遊んだ彼の家は、彼の年相応に変わっていたけれど、根っこは多分変わっていない。
空き瓶のコレクション。ベッドサイドに投げ出された小銭。くたびれたカーテン。ほこりっぽい空気。
俺は笑わなかった。泣きもしなかった。
でも本当はすこしうれしくて、すこし悲しかったのだ。
3/14 Mon.
踊らされたくないけれど、同じアホなら踊らにゃ損なんです。
今日はホワイトデーなんです。
でも、男と飲んでました。踊れないダンサー、それがボク。
3/15 Tue.
領土問題よさようなら。みんなでムツゴロウ王国に住もう。
3/16 Wed.
しまった寝過ごした。ついでにいいともみてジャスト見てしまった。
あ、その前に年下の男(再)も見てしまった。
いやあ、充実しているなあ。
3/17 thu.
満場一致で議員辞職の決まった中西議員を、俺という男は同情こそすれ、責めることはできない。
揉んじゃうもの、ボク。もみしだいちゃうもの。
3/18 Fri.
久々に会った友と、教育論を熱く語り合ってしまった。
人間性こそが最重要タームである云々。ああ、なんたる失策。この俺が、教育について、ご講義垂れるなんざ。
教育者を志す諸兄に、心からすまないと、お伝えください。拙者雲隠れいたす。
3/19 Sat.
気が付けば、春休みも残り一週間を切った。
ああ、なんもやってない。
3/20 Sun.
踊り狂ってきた。力の尽きるまで。明日一日を無駄にできそうな予感でいっぱいだ。
3/21 Mon.
案の定無駄にした。
3/22 Tue.
ジャニーズ事務所の若造達は、けっこうまともな演技をするなあ。
努力があるんだもんな、当たり前か。
3/23 Wed.
新宿駅の構内、二人で手を組んで円陣組んでエイエイオーをした。
訳は聞かないで欲しい。
3/24 thu.
うんこがでない。
3/25 fri.
ふと思いついて、渋谷のライブイベントに行ってきた。
クラムボンは本当にすばらしいバンドだ。音が伸びやかに会場を満たしていくのを感じていた。音楽に酔っていた俺は気持ち悪い顔をしていたと思う。
3/26 Sat.
うんこがでたー!
3/27 Sun.
実家に帰ってきた。久し振りに息子の顔を見た母親は、何の感慨も抱くことなく、俺の靴下をくさいと言って、アイロンがけをしていた。
その晩は、肉じゃがだった。
3/28 Mon.
江戸っ子に啖呵を切られた。正確には、下町なまりのおじいさんに道を聞かれたのである。
いやあ、貴重なものに出会ってしまった。
3/29 Tue.
女子中学生を教えた。洋服の趣味が悪かった。
3/30 Wed.
今日も同じ子を教えた。相変わらず洋服の趣味が悪い。だが今日は、犬好きのいい子であることを発見した。
どうも人の嫌な所ばかりに目が行く傾向がある。そういえば汚いトイレなど、みたくもないのについつい眺めてしまうことがある。同級生の吐いたカレーをまんじりともせず見つめ、もらいゲロをしたこともあったっけ。
女子中学生とゲロを同列に置いては失礼だったろうか。
3/31 Wed.
エターナルサンシャインを見た。素敵な映画だったので、旅から帰ったらブログに書こう。
My Diary - February 2005
手を怪我してバイトを休んだ。そんなお手軽さで人生もちょっと休めたらいいと思った。
「わるい、ちょっとシフト変わってよ」。
たまにはいい。
でも休んで何処に行けばいいんだろう。やべ、ちょっと怖いこと考えちまった。酒飲んで寝よ。
2/11 Fri.
朝起きたら、足がつっていた。思うに吸血コウモリにやられたのだ。寝ている隙に、やつはこっそり。コウモリというのはどうも卑怯で困る。
*
塾の先生をバイトでしているのだが、彼らの頭の柔軟さには舌を巻く。頭をなでてやりたくなる。きっとやわらかいのだろうなあ。
2/12 Sat.
代々木のフリマに行ってきた。行ってきただけだ。
2/13 Sun.
音楽は百薬の長だ。
ただ、僕が何に薬を求めているのかはわからないままである。
肩こりにも効いたらいいなと思うが、イヤホンが凝りを助長しているような気がするのは内緒だ。
2/14 Mon.
ココアとチョコチップをもらった。彼女たちがどういう気持ちでそれを差し出してきたのか定かではない。が、なんだかうれしくなってしまった。拭いがたい敗北感で、僕はその夜、枕をぬらしたのである。
2/15 Tue.
塾の打ち上げで、飲み会があるそうだ。ただ酒だそうだ。
わが身をいたわる術を覚えだしたとはいえ、二十歳の僕には、「ただ酒」の響きはあまりに魅惑的である。
きっと素敵な寝ゲロを吐くのだろうなあ。
2/16-18 Wed.-Fri.
映画の撮影を手伝いに行ってきた。山脈に囲まれた田舎の景色は僕の心を癒してくれた。
だが体調は悪くなった。二兎を追うもの一兎も得ずというではないか。心身ともに癒されるなどという甘言に踊らされてはいけない。癒しの道は厳しいのである。
2/19 Sat.
本当に寒い日だった。肩がこる。寒さと肩こりの比例定数を調べたいと思った。思っただけだ。
2/20 Sun.
二日酔いで一日を過ごした。限界を心得るというのは、教訓だ。そうそうには得がたい教訓であるが、死ぬまでにはおのれの酒量の限界くらい把握したいものだ。他人に迷惑をかけずに、おいしくお酒をいただきたいのです。
2/21 Mon.
堀江さんの言っていることに釣り込まれそうになる。ベンチャーを成功させた人物というのは、リスクへの感覚が鈍ってしまっているのか、大胆すぎる行動力が魅力に映ってしまう。
僕の抱えるリスクといえば、僕自身の人生だけだ。だがそれにすら押しつぶされそうだ。ああまったく。抱えるものの小ささに泣けてくる。
2/22-26 Tue.-Sat.
ここ一週間、酒の席が続いているが、さっぱり飲めない。体が何かを訴えているようである。こら、体、はっきり言わないと分からないよ。ばか。
2/27 Sun.
天気のよい日は公園に行こうだなんて、誰が言い出したんだ。まったくよいことを言い出してくれたもんだ。ああ、お日様がいっぱいだ。
2/28 Mon.
起きた時間が悪かったのだ。無為な昼を過ごしバイトをして、無為な夜を過ごし、多分このまま無為な人生を送るような気がしてしまう。いや、多分うつ病なんだろうな、俺ってば。
第六回・世界は踊る『東京ゴッドファーザーズ』
「アニメーションでは到底リアリズムを表現し得ない」とも取れるいささかあらっぽい論ではあるが、肯定的に捉えればこれ以上の利点はない。人間の創造力の許す限り、世界を構築することができるからだ。それこそがアニメの利点であり、らしさなのだ。
『東京ゴッドファーザーズ』において構築された世界は、しかしまったく正反対のベクトルを持っている。緻密に構成された画面は、東京のアンダーグラウンドを映じ、しっかりとした地盤を築いて僕を離さない。裏側から東京を覗くホームレスの視点というのも生々しい。
だが緻密な世界を描くことに心血を注いだだけでは、冒頭に挙げたアニメーションの利点を活用できていない作品だということになってしまう。この作品におけるアニメらしさは一体どこに見られるのだろうか。その強力な力を、僕は脚本に見出した。
厳然として「在る」という感覚=リアリティーを、「アニメらしさ」という真逆の方向に牽引していくのは、今敏、信本敦子両氏のエンターテイメントに徹した脚本である。ハイスピードで滑走する展開に、世界が追いつかなくなり、ねじれていく。ねじれた世界は、やがて奇妙な快感を伴って踊りだす。端的に表すならばそんな脚本であった。
三人のホームレスが、捨て子の両親を探すうち、それぞれの過去を巡っていくというストーリー展開そのものも楽しめる内容だが、疾走する速さと、ねじくれていく世界の妙味に浸った二時間であった。
緻密な世界の中でも、あくまでアニメらしさを追求する今敏監督には、押井監督や宮崎監督にはない可能性を感じる。次回作が本当に楽しみであるなあと思いつつ、僕のブログ第六回は幕を閉じるのであった。
第五回・死に至らない絶望『ばかのハコ船』
死に至る病が絶望であるといった十九世紀の哲学者は、この映画を見てなんというのだろう。きっと困惑してしまうに違いない。何故ならこの映画には、生き続ける絶望が描かれているからだ。
いや、そう断言してしまうのは僕の精神状態が大きく作用してしまっているのかもしれない。とりあえず今回は、筋を追っていこう。
今より少し昔、平成不況真っ只中の日本に健康ブーム吹き荒れる日々の話。ブームに乗っかり一山当てようと、「あかじる」なる健康食品を開発した酒井大輔と、その恋人島田久子は開発資金500万を背負う。だがまずい・くさい・いかがわしい「あかじる」、売れる気配はまったくない。
物語は二人が大輔の故郷で販路を築いていこうと乗り出すシーンから始まる。
しょっぱなからこれである。どこにも行き場のない二人が、果たしてこの土地でどうなっていくのか、狂おしいほどの不安を掻き立てられる。この次に続くシーンで両親を説得する大輔がしゃべりだすその頼りなさを見るに至っては、前回の『リアリズムの宿』鑑賞時に僕が浮べた表情がまたやってくるのを感じた。
物語はすすめど、案の定彼らの商売はうまくいかない。自暴自棄になった大輔は地元の元彼女の家に転がり込む。
ここで挿入される田舎の中学生だった大輔の回想にはわらかされた。
しかしこの映画の随所に挿入される過去の回想は、その中にすでに失われ行くもの達への予感が詰め込まれていて、笑いと同時に不安感は募らせる。ちっともいい気分にさせてくれない回想である、が単純に笑える。
ひょっとしたら、と僕は思う。僕らはこうして過去を振り返っては、笑ったり、失ったものへの思いを募らせずにはおれない者なのかもしれない。
「あかじる」をただでくばり、何もかも失った二人はどん底まで落ちる。文字通り落ちる。
「ふつう落ちるか?」マンホールを覗き込み、久子に大輔がいう。それはおまえに言いたいセリフだ。
こんなにばかばかしくて笑えて、でも悲しいメタファーってあるだろうか。どん底の二人がマンホールに落ちていくなんて。さあ、キュルケゴールさん。なんとか言ってください。絶望を抱えても彼らは生きていますよ。
山下監督の描く人物は、僕の琴線を激しく揺さぶる。時には激痛すら伴う。もう簡便してほしいのだ。けれどきっとまた見てしまうのだろうなあと思いつつ、僕のブログ第五回は幕を閉じるのであった。
第四回・混沌に踏み出す一歩『女はみんな生きている』
僕は今、そんな気分を抱えている。何かを抱えて生きるのは、忘れたり考えないで生きるよりはるかに難しい。苦しみはどこかに置いていく、そんな機能が多分生きるためのメカニズムにあらかじめ組み込まれているのだ。
主婦エレーヌの転機は、違った人生への同情と、その同情が自分にも向けられたものだったことに気が付く、共感がもたらしたものだった。
エレーヌは確かに自分で選択して生きてきたのかもしれない。その選択が正しいかどうか、わかるはずもないけれど、今いる場所に違和感を覚え始めたら、海辺の別荘に一軒家を買って、女同士で暮らすのも悪くない。
フランス語での原題は「Chaos」、つまり混沌だ。混沌はラストシーン、それぞれの女たちが見せる表情にこめられている。特におばあさんの表情は格別だ。どんな顔をしていたのか気になった読者諸兄は、各々の目で確認してもらいたい。素敵な勇気をもらえると思います。
コメディータッチで描かれるのに筋は結構グロい。だが脚本のセンスだろうか、それらが違和感なく混ざり合っている。毒の効いた笑いで二時間を飽きさせない作品であったが、その点に多少不満を感じてしまったといったら贅沢すぎるだろうか。まあコメディーなので、と言ってしまえばそれまでですが。
フランス語もけっこういいものだなあと、英語にかぶれた脳を疎ましく思いつつ、僕のブログ第四回は幕を閉じるのであった。
第三回・静かなまなざしの変態『理髪店主のかなしみ』
フロイトの時代に定義された異状性癖は、価値観の多様化する現代においてはそれなりの容認を得てきたものの、理髪店主のドヘンタイぶりを認めるというのは、僕にはちょっと難しかった。
性癖がもたらす店主の妄想は、シュールであり、それに反して彼はあまりに現実的な人間である。現実と妄想を行き来する店主のまなざしは、コミカルであるのにものがなしい。
だが彼のまなざしが本当にかなしみを見せるのは、実は念願かなって女王様(と彼が心の中であがめる女性)に蹴り飛ばされるシーンであったのではないかと思う。
虐げられることが快感という店主のそれは、到底一般人と共有できる感情ではない。だが愛した女性にそれを求めてしまう。それこそが不幸であり、かなしみなのではないか。
公衆の面前で愛する女性に足蹴にされ、恍惚とした表情を浮べながら、実は共有されない愛情に静かにかなしんでいる。店主のかなしみは絶望ではなく、かなしみという言葉がぴったりくるものなのだ。
だがその男の生き方に、僕は、なにか救いのようなものを感じてしまう。フェティシズムを抱え苦悩するのではない生き方に、安心してしまうのである。生きるって素晴らしいなと、見当違いな感慨を抱いたものだ。
今回は内容にほぼ触れずに書いてしまったなあと反省しつつ、僕のブログ第三回は幕を閉じるのであった。
第二回・戦争という寓話『モロヘイヤWAR』
強国の軍事的介入に端を欲する戦争が、その長期化により泥沼化し、世論が反戦をとなえ、反体制の大きなうねりとなって世界を飲み込んでいく。そんなシナリオが、現実世界では30年前に書かれていた。
僕らはそんな時代を空気として感じることはもはやできない。戦争が無くなったわけではないが、その質が変わってしまったのだ。暴力が世界を支配する時代の戦争は、イデオロギーの支配するそれよりはるかに残酷で、わかりやすくて、だから恐ろしい。
そんな想いを抱いていたからだろうか、「これが蔭山監督の反戦だ」と銘打たれたこの作品に、最初時代錯誤甚だしいメッセージを感じてしまったのだ。
だが八ミリフィルムに映し出される性と暴力のモチーフの連続が、僕に反戦の二文字を忘れさせた。そうしてあらわれたもの。それは奇妙に浮遊した、一個の人間の存在の不安定である。
この作品における「戦争」は、殺し合いではない。極限状況で失われる個を取り戻すアイデンティティー・ウォーに他ならないのである。
主人公の出生にまつわる結末もまたその主題を明瞭に示していると思われるのだ。
前編八ミリフィルムによる映像が現実との奇妙な遊離を見せ、低予算まるだしの現場の雰囲気とあいまって素晴らしくやすっぽく仕上がっている。だが、僕は不快感どころか味わいを感じてしまった。今後に期待したい監督の一人だと、個人的には思っている。DVDに収録されていた二つの短編、『ナッツ』『半透明ダム』も素晴らしかった。(前者は小説家、千木良悠子とのコラボレイト。後者は当ブログ第一回でとりあげた『リアリズムの宿』にて主演をはった山本浩司の魅力を余すところ無く映し出したイメージ作品である)
映像作家に脳内を揺るがされ、深夜のコンビニに行こうか行くまいか思案しつつ、ぼーっとなりながら僕のブログ第二回は幕を閉じるのであった。
第一回・深夜における『リアリズムの宿』
込み合う店内を人の間を縫って歩く。目に付いたものを手にとっていく。気付いた時には五本のDVDを両手に掴んでいた。そうして選んだビデオの中に今回紹介する『リアリズムの宿』はあった。
僕は深夜をこよなく愛する。多分、僕が夜を愛するのは酒を愛するのと同じ理由である。静けさのうちに、自分を特別にしてくれるような錯覚を抱かせる何かを、夜は持っているからだ。
だがそんな時間にぴったりの映画となると、そうそう簡単に出会えるものではない。ある瞬間、暗闇を見つめる先に全てがしらけてしまう時間がやってくるのである。
ブログ第一回から随分暗いトーンで始まってしまったが、ようするに何が言いたいかというと、『リアリズムの宿』という映画がその暗闇に一筋の光明を与えるような内容だった、ということである。
二時間の映画が終わった。ちょうど、暮れかけた公園に静かにともる街灯のように、僕の心にやさしくせまってきたのは、監督山下敦弘の絶妙な笑いのセンスであり、三十路近い凡人達の、バカみたいだけど悲しい大人の青春像だった。
冒頭のシーンがよかった。それはこんな風に始まる。
お互い名前だけは知っている自主映画の監督二人が、寒村の無人駅で共通の知人を待ちながら途方にくれている、ものすごく長い尺のシーン。二人はぎこちなく自己紹介をしあうのだが、結局ぎこちないままお互いの中に踏み込もうとはしない。
この距離感だ、僕は一人つぶやいていた。才能を信じる人間というのは得てしてこういうものだ。こちらから踏み込むなんてことはしない。それはプライドが許さないのだ。
会話の間も絶妙であり、行間に言葉を詰め込むだけ詰め込んでいる。多分山下監督は頭の中でブツブツつぶやくようなタイプの人間だ。
二人の主人公、木村と坪井。彼らの凡人ぶりはすさまじく、どんなホラーを読むより、僕の胸にはきつく迫ってきた。ペーソスの効いた笑いにも、途中からは無理やり口の端をゆがめて笑っていた。多分泣き笑いに似た表情をしていたと思う。
それでも、僕がこの映画にやさしさを見た理由はなんだったのか。僕がここで答えてしまうこともできるけれど、むしろ映画のラストシーンを見て欲しいと思う。
映画について語るためのブログと銘打ったのに、のめりこみすぎて語るのを拒否したくなってしまった作品をいきなり取り上げてしまったことに後悔しつつ、僕のブログ第一回は幕を閉じるのであった。