第六回・世界は踊る『東京ゴッドファーザーズ』 | 世界と日々と君と僕

第六回・世界は踊る『東京ゴッドファーザーズ』

アニメーションにおける映画としての利点について、ある批評家がこんなことを言っていた。曰く「二次元に投影される世界観を、我々はその始点から終点まで、なんら疑問を差し挟むことなく純然たるフィクションとして受け容れることが可能なのである」と。
 「アニメーションでは到底リアリズムを表現し得ない」とも取れるいささかあらっぽい論ではあるが、肯定的に捉えればこれ以上の利点はない。人間の創造力の許す限り、世界を構築することができるからだ。それこそがアニメの利点であり、らしさなのだ。


 『東京ゴッドファーザーズ』において構築された世界は、しかしまったく正反対のベクトルを持っている。緻密に構成された画面は、東京のアンダーグラウンドを映じ、しっかりとした地盤を築いて僕を離さない。裏側から東京を覗くホームレスの視点というのも生々しい。


 だが緻密な世界を描くことに心血を注いだだけでは、冒頭に挙げたアニメーションの利点を活用できていない作品だということになってしまう。この作品におけるアニメらしさは一体どこに見られるのだろうか。その強力な力を、僕は脚本に見出した。
 厳然として「在る」という感覚=リアリティーを、「アニメらしさ」という真逆の方向に牽引していくのは、今敏、信本敦子両氏のエンターテイメントに徹した脚本である。ハイスピードで滑走する展開に、世界が追いつかなくなり、ねじれていく。ねじれた世界は、やがて奇妙な快感を伴って踊りだす。端的に表すならばそんな脚本であった。


 三人のホームレスが、捨て子の両親を探すうち、それぞれの過去を巡っていくというストーリー展開そのものも楽しめる内容だが、疾走する速さと、ねじくれていく世界の妙味に浸った二時間であった。


 緻密な世界の中でも、あくまでアニメらしさを追求する今敏監督には、押井監督や宮崎監督にはない可能性を感じる。次回作が本当に楽しみであるなあと思いつつ、僕のブログ第六回は幕を閉じるのであった。