第五回・死に至らない絶望『ばかのハコ船』 | 世界と日々と君と僕

第五回・死に至らない絶望『ばかのハコ船』

第一回に続いて、山下敦弘監督作品をとりあげようと思ったのは、単純に面白かったからだ。面白くて、悲しかったからだ。

 死に至る病が絶望であるといった十九世紀の哲学者は、この映画を見てなんというのだろう。きっと困惑してしまうに違いない。何故ならこの映画には、生き続ける絶望が描かれているからだ。

 いや、そう断言してしまうのは僕の精神状態が大きく作用してしまっているのかもしれない。とりあえず今回は、筋を追っていこう。

 今より少し昔、平成不況真っ只中の日本に健康ブーム吹き荒れる日々の話。ブームに乗っかり一山当てようと、「あかじる」なる健康食品を開発した酒井大輔と、その恋人島田久子は開発資金500万を背負う。だがまずい・くさい・いかがわしい「あかじる」、売れる気配はまったくない。
 物語は二人が大輔の故郷で販路を築いていこうと乗り出すシーンから始まる。

 しょっぱなからこれである。どこにも行き場のない二人が、果たしてこの土地でどうなっていくのか、狂おしいほどの不安を掻き立てられる。この次に続くシーンで両親を説得する大輔がしゃべりだすその頼りなさを見るに至っては、前回の『リアリズムの宿』鑑賞時に僕が浮べた表情がまたやってくるのを感じた。

 物語はすすめど、案の定彼らの商売はうまくいかない。自暴自棄になった大輔は地元の元彼女の家に転がり込む。

 ここで挿入される田舎の中学生だった大輔の回想にはわらかされた。
 しかしこの映画の随所に挿入される過去の回想は、その中にすでに失われ行くもの達への予感が詰め込まれていて、笑いと同時に不安感は募らせる。ちっともいい気分にさせてくれない回想である、が単純に笑える。
 ひょっとしたら、と僕は思う。僕らはこうして過去を振り返っては、笑ったり、失ったものへの思いを募らせずにはおれない者なのかもしれない。

 「あかじる」をただでくばり、何もかも失った二人はどん底まで落ちる。文字通り落ちる。
 「ふつう落ちるか?」マンホールを覗き込み、久子に大輔がいう。それはおまえに言いたいセリフだ。
 こんなにばかばかしくて笑えて、でも悲しいメタファーってあるだろうか。どん底の二人がマンホールに落ちていくなんて。さあ、キュルケゴールさん。なんとか言ってください。絶望を抱えても彼らは生きていますよ。

 山下監督の描く人物は、僕の琴線を激しく揺さぶる。時には激痛すら伴う。もう簡便してほしいのだ。けれどきっとまた見てしまうのだろうなあと思いつつ、僕のブログ第五回は幕を閉じるのであった。