第二回・戦争という寓話『モロヘイヤWAR』 | 世界と日々と君と僕

第二回・戦争という寓話『モロヘイヤWAR』

 オリバーストーン監督作品『プラトゥーン』を彷彿とさせる、ベトナム戦争における小隊という密室状況の人間ドラマか、あるいは。


 強国の軍事的介入に端を欲する戦争が、その長期化により泥沼化し、世論が反戦をとなえ、反体制の大きなうねりとなって世界を飲み込んでいく。そんなシナリオが、現実世界では30年前に書かれていた。
 僕らはそんな時代を空気として感じることはもはやできない。戦争が無くなったわけではないが、その質が変わってしまったのだ。暴力が世界を支配する時代の戦争は、イデオロギーの支配するそれよりはるかに残酷で、わかりやすくて、だから恐ろしい。


 そんな想いを抱いていたからだろうか、「これが蔭山監督の反戦だ」と銘打たれたこの作品に、最初時代錯誤甚だしいメッセージを感じてしまったのだ。


 だが八ミリフィルムに映し出される性と暴力のモチーフの連続が、僕に反戦の二文字を忘れさせた。そうしてあらわれたもの。それは奇妙に浮遊した、一個の人間の存在の不安定である。
 この作品における「戦争」は、殺し合いではない。極限状況で失われる個を取り戻すアイデンティティー・ウォーに他ならないのである。
 主人公の出生にまつわる結末もまたその主題を明瞭に示していると思われるのだ。


 前編八ミリフィルムによる映像が現実との奇妙な遊離を見せ、低予算まるだしの現場の雰囲気とあいまって素晴らしくやすっぽく仕上がっている。だが、僕は不快感どころか味わいを感じてしまった。今後に期待したい監督の一人だと、個人的には思っている。DVDに収録されていた二つの短編、『ナッツ』『半透明ダム』も素晴らしかった。(前者は小説家、千木良悠子とのコラボレイト。後者は当ブログ第一回でとりあげた『リアリズムの宿』にて主演をはった山本浩司の魅力を余すところ無く映し出したイメージ作品である)


 映像作家に脳内を揺るがされ、深夜のコンビニに行こうか行くまいか思案しつつ、ぼーっとなりながら僕のブログ第二回は幕を閉じるのであった。