世界と日々と君と僕 -2ページ目

俺とデートと一行日記

明日はデートだ。俺はフェイススクラブを満遍なく顔に塗った。そして寝た。

俺と写真と視線の先

 写真っていうのは、すごくお手軽なものだと思っている。お手軽だからこそ、そこに込められているものが問われた時、困ってしまう。俺はそこにあるものにシャッターを押すことを促されたのだ。そんな説明で誰が納得するだろう。


 案の定、俺の言葉は拒絶された。ある批評会でのことだ。否定したやつは、「俺はテーマをもって写真に向かっている。誰にでも量産できる写真だからこそ、そこにはテーマが必要だ」云々、言っていた。


 その時は明確な反論をしなかった。うまく言葉に置き換えることができなかったからだと思う。ただ漠然と、「目に留まったものを撮る、それが全てだ」とは思っていたのだが。


 そういう風に煮え切らなかった感情を煮え切らないままにしていたせいだろうか、たまたま立ち寄った書店で見つけたある写真集があの時煮え切らなかった思いを言語化してくれたのだ、今日。その写真集は『Childrens』といった。二歳から六歳の子供達三十人程度が、写真を持って町に繰り出し、実際に撮ってきたものを集成した作品集である。


 写真集の話をする前に、俺がどのように写真と向き合ってきたか、ちょっと話そう。


 先述したとおり、俺は写真は撮るものであるけれど、同時に撮らされるものだなあと思っていた。撮る行為は能動的であると同時に、景色、人、物に反応することによって「撮らされている」のだと、思っていた。


 もう少し詳しく述べるなら、俺のいう「撮らされる」とは、我が人生における経験や見てきたもの、無意識の蓄積が撮らせるものだと思っていたのだ。

 つまりそれは自身の視線を体現していると同時に、誰かの視線を受け容れた上での作品であると、半ば諦観を感じていたのである。


 まあしかし、俺の写真は至ってシンプルに、「自らの視線」をテーマにしたものだったのだ。それが本当は誰かのモノマネであったとしても、自分の網膜に写ったものを信じるしかないと思っていた。


 だが、こどもたちの視線はシンプルとかシンプルでないとか、そういうことすら考えていない類の何かだった。表現することを考えていないというか、写真が視線であるということすら念頭にはあるまい。

 撮りたいものを撮りたい瞬間に撮っている。そんな印象を抱かせるのだ。


 自分も撮りたいものを撮りたい瞬間に撮っているはずだ。なのに、子供達の写真と自分のそれを同じものには到底見えない。むしろまったく異質なものに見えるのだ。


 何故だろう。本屋の片隅で、俺はしばし熟考した。ピントの合っていない子供達の写真を見ながらぼんやり考えた。本屋はクーラーが効いていた。とにかく考えた。


 おそらく、そんな曖昧な応え方しかできないのだが、おそらく彼らはカメラを意識していない。シャッターを押すことによって象が写ることを知らない子すら、もしかしたらいるかもしれない。このような観点からもう一度、彼らと自分との違いについて考えてみると、俺はカメラに像が写ることを知っていて、その目的のためにシャッターを押す。だが彼らは違う。まず最初に感情がある。友達と一緒で楽しい。お父さんがいてちょっと怖いけどうれしい。花がきれいetc.......そうしてたかぶった感情に促されて、彼らはシャッターを押す。押しはするが、たとえば露出やピントの調節なんてしないだろうし、ファインダーすらのぞいていないかもしれない。何故なら写真を撮り、その像を残そうとシャッターを押すのではなく、シャッターを押すことは感情の副産物にすぎないからだ。


 感情を写真にされたら、そりゃあかなわないわ。

俺とメールとちょっとした言葉

 彼女に言いたいことができるとすぐメールしてしまうメールホリックな俺なのだが、諸事情でしばらくメールができなくなってしまいました。でも伝えたいことはいっぱいあるので、ここに記すことにした。なんで?って言われても、まあそういうことだから仕方ない。いいじゃん、俺のブログなんだし。



AM 9:52 

 あっついねー。今家出たんだけど、空気が絡み付いて絡み付いて死にそうなんですけど。死にそうなんですけどー。あばば溶ける。いってきます


AM 10:45

 さっき甲本ヒロトみたいな格好(ブーツにアーミーパンツにバンダナで髪ツンツン)したやつがピストルズのTシャツ着てた。ロックを感じたよ、朝から。これから授業なのに。たかぶる気持ちを抑えきれないよ


PM 0:27

 おとぼけ行っちゃったよーやべえ最近利用しすぎだわ。なんか金がないと学食っていうパターンが許せなくてよー。つうか節約楽しくないや俺も。うへえ


PM 15:25

 掲示板でレポートの題目メモってたら後ろで舌打ちしながらボールペンかちゃかちゃやってる坊やがいたんで場所ゆずりました。紳士だろ?それにしても暑いなあ。そっちはどうなの?クーラー効いちゃってるの?


PM 15:54

 アエラ買ったよ。就職活動関係の記事が載ってたらからさ。参考にしてくらはいロディーちゃん


PM 16:05

 あー、塾すずしいわー。こんな環境でヌクヌクと勉強してる今日日の小中学生の先が思いやられるわあ。俺が思いやっても変わらないところがまた腹立たしい。じゃあまた子供らと戯れてくるよ。いってきます

俺とトマトと気持ちの悪い味覚

 俺というのはつくづくトマト大好き人間なのだなあと思った。ホールトマトでハンバーグを煮込んだ物体を作ったのであるが、これが予想以上にうまかったのだ。料理なんて何がどう作用するかわからないが、トマトが主体だったことが、俺の感動の多くを占めているように思う。


 そんなことを考えていると、子供の頃ケチャップをすすることに無常の喜びを見出していたことを思い出した。思い出してしまった。


 さらにそういえば、粉チーズ、のり、マヨネーズ、醤油、わさび、からし、等冷蔵庫にある調味料のほとんどをつまみぐいしていたことも思い出してしまった。思い出してシマウマ。


 小学生にも満たないような児童が、なぜ甘味に走らず調味料に走ったのか。それも単体で。なぞは深まるばかりであるが、とにかく俺はトマトが好きだ。

俺とナウシカと飽きっぽい性格

 映画のイメージが強い『風の谷のナウシカ』だが、全七巻に及ぶ原作のスケールには、遠く及ばない。最近全巻パッケージが発売されたのでご存知の方も多いことと思う。


 いやあ、ここまで書いて、今ちょっとナウシカ手元になかったんで、セリフを探すべくネット検索してたら、なんかもうすげえ深い考察してるページがあって、色々ナウシカ論を語ろうと思ってたのにいまさら俺が語ることないなあと思ったので、そのページ紹介して今日は消えますドロン。


 まあ持論の要約だけのっけちゃうと、

生命を生み出すことへの禁忌の態度を怪物を生み出してしまったフランケンシュタインとの比較から、生命を生み出すことへの禁忌の感情をナウシカの側は生命倫理学的に、フランケンシュタインの側からはキリスト教学的に比較研究しようと思っていたのです。


 でもこれ普通にレポート書くくらい大変じゃん。



『風の谷のナウシカの生命論』http://homepage3.nifty.com/mana/miyazaki-nausika-1.html



―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


6/23 (木) 今日の交換日記

 やあやあ、なんかナタデココのゼリーがあぶらっこいって言ったじゃん?あれってココナッツミルクかもねっていったじゃん?で、たらみのHPで調べたんだけど原材料には書いてなかったよ。「ぷりぷり」とか「あっさり」とか「まろやか」とか、ちーだったらすぐ書けるんじゃないかと思われるような製品案内で笑えますよ。


『たらみ株式会社』http://www.tarami.co.jp/seihin/kirari/7200_2.html


俺とこっことやさしげな面々

 バイト先(焼き鳥屋)の有線放送でSINGERSONGERが流れていた。Coccoが元気になってよかったね、とちあきちゃんが言っていたのを思い出しながら、なんとなく耳を傾けていた。


 この曲ってくるりの岸田さんやら佐藤さんやらが参加してるんですよね。ジャケ写もほんわかムード漂う、やさしげなメンバーの笑顔をそのままのっけたもの。ピクニックかなんかしてんのかな。楽しそう。


 上記の二点(1・Coccoがちょっと前まで元気なかった。2・SINGERSONGERの活動は楽しそう)を踏まえて思ったのであるが、このユニットってCoccoを元気付けるためだけに結成されたんじゃないだろうか。このような仮説を立ててしまったために、今日のバイト中、俺はずっと、彼らのレコーディング風景を妄想していた。


 上手に歌えず落ち込むこっこ。はげますメンバー。それでも泣きじゃくるこっこ。いい加減にしろとキレる堀江。おどおどする佐藤。しっかりしろと激を飛ばす岸田。ゆっくりと顔を上げ、泣き腫らした目でメンバーを見るこっこ。おどおどする佐藤。やがてにっこり微笑みうなずくこっこ。うれしそうにおどおどする佐藤。


 などという情景が、ヴィジョンが、僕を捕らえて離しません。僕の日常を返して。

俺とディスニーと世界の悲哀

 皆さん、こんな噂を聞いたことがあるだろうか。「この世には、ディズニーアニメの世界を現実化した、訪れる誰しもを愉快な気分にさせてしまうプレイランドがある」


 賢明な読者諸氏のことであるから、こんな噂に踊らされる有象無象を鼻で笑っていることと思う。かくいう俺も、「まったくそのような噂に踊らされる大衆愚衆はバカだね、足が臭いね」などと思っていたのである。


 だが、俺ははなはだ浅はかであった。足も臭かった。と、猛省すること一週間、この感慨を少しでも多くの人に知ってもらうべく筆をとったのである。


 そう、伝説の桃源郷、ディズニーランドは実在したのである。あまつさえディスニーシーなる施設さえ併設させて。驚愕の事実!恐るべき真実!ああ、神よ!私はあなたに告白しなければならない!ディズニーランドは確かに実在したと!


 だが疑り深いのは人間の性なのだろうか。ちあきにその存在の信憑性をとうとうと語られたところで、到底信じられるものではなかった。ゲートをくぐるその直前まで、はしゃぐ彼女を尻目に、口元に冷笑を浮べていたのである。


 「ガチャン――ニューヨークの地下鉄を彷彿させるゲートを通過すると、そこはワンダーランドであった。」かのノーベル文学賞作家川端康成も、平成の世に生まれたら「雪国」を著す代わりに、ディズニーランドで繰り広げられる悲恋を物語るに違いあるまい。


 とにもかくにも


 ゲートの先は創造を絶するイマジネーションの楽園であった。一挙手一投足、吸う空気、吐く息、身体的動作の全てがこの空間で楽しむためだけになされているような感覚とでも言おうか。そこは何者に制約されることなく楽しむことを許されている空間だったのだ。


 我々は日常様々な制約のうちに生きている。在る学者はそれを「精神の壁」と言った。意識の上で認識される規律、法律、常識、慣習はもとより、無意識の領域にある「あたりまえ」という感覚に人間はしばられているのだと。


 楽しむことに制約があるなんてもちろん考えない我々ですが、この思考停止がやばいんじゃないかと、我思う。「生きていれば楽しい」という考えが精神の壁となって「楽しむことにすら無意識の抵抗を感じさせる世界」という捉え方を排除してしまっているのではないか、と疑ったのです。つまり我々は本当の意味で楽しめていないんじゃないか。だから世界を受け容れていくに従って、つまり大人になるに従って、我々は笑顔を失くしていくんじゃないだろうか、とか思ったのです。


 そんなことを考えたのは、ディズニーシーから帰ってきた一週間後だった。原色の甘い匂いのする世界は思考をとめる。あの世界でもこの世界でも、僕らは何一つ考えることができない。

 


俺とバトンと音の連鎖

 うーん、すごいぞインターネット。

 

 "MUSICAL BATON "。いわゆるチェーンメールのような形態で広まったネットを使ったコミュニティーです。

 以下に記す五つの「フォームに従って、音楽遍歴を紹介し、さらに五人のネット上の知人にバトンを手渡すというもの。俺は、ちあきから手渡されたのですが、彼女は俺がネット上で最も尊敬に値する人物、☆MIXED BAG ☆の管理人ナオトさんといつの間にかコンタンクトをとっており、あろうことかバトンを本人から受け取る(!)という大ラッキーに見舞われたのです。もう羨ましいやら悔しいやら、あーいいないいなーと連呼したしまったのです。
 

 まいいや、どんどんいくどー。ナオトさん見てくれてたらコメント下さい!

1) Total volume of music on my computer:(自分のPCに入ってる音楽ファイルの容量)

16GB

 今のところi-tunesに約3000曲入ってます。歌好きインスト好き。アンテナ広いほうじゃないんで、良いといわれているものをとりあえず聞いてみっかーって感じ。もっとたくさんの音楽に出会いたいと思う。興味がむくままにこれからもどんどん出会っていきたい。

 今ふと思い出したんだけど、手塚治虫先生の代表作『鉄腕アトム』で、主人公アトムが音楽を聴いても音階の羅列にしか聴こえないと、音楽を解する人間をうらやむ話があった。人間はどうして単純な音の繰り返しに感動するんだろう、アトムは言う。でもねアトム、俺だってわからないよ、どうしてこんなに胸に沁みたり心が躍ったり、音楽がなんなのか全然わからない。でもね、わからないってことは幸せだと思うよ。

 ただ耳の奥に反響する空気の振動を、ゆっくり味わうだけでいいんだから。



2) Song playing right now:(今聴いてる曲)

Devil's Haircut / Beck

 今なんにも曲聴いてませんでしたごめんなさい。シャッフルで再生したらコレが流れました。イントロから大好きです。言わずと知れたグラミー受賞作『Odelay』の一発目です。

 んーなんつうか生音を並べた感じ丸出しで、音に立体感がまったくなくて、そこにBeckのちょいルーズなボーカルが入ってくる。なんていうかスーパーファミコン。でもちょっと三次元と毒を取り込みつつみたいな印象だからセガサターンかな。セガの黒い悪魔だし、この曲にピッタリじゃん。あ、この表現どっかで聞いたことあると思ったらMIXED BAGのキセルのレビューでした。ごめんなさい。パクっちゃいました。



3) The last CD I bought:(最も最近買ったCD)

くるり『アンテナ』

 うーん、発売いつだよアンテナ。レンタルにお世話になり過ぎですってほんと。ああでもこのアルバムは本当によいアルバムだった。初めて通して聴いたとき、「え?なにこれ、え?」とか言っちゃったな。よくも悪くもくるりって、ダイナミズムみたいなものからは離れたバンドだと思ってたんです。でもこのアルバムは違った、と思う。多分幾度となくセッションを重ねたのだと思うけど、音が濃くて絡み付いてくる。ドロっとしてて透明感がない音集合を耳から注がれてる、そんなイメージが一番伝わるだろうか。気持ち悪いけどね。

 バンド経験なんてないから「クリストファーの存在が大きく作用したんじゃないだろうか」なんて知った風なこと言えないけど、あの外人がバンドに残して行ったエネルギーを、感ぜずにはおれない。

 アンテナを聴く時はUSAの方向に一礼してから聴くのが通例です(当然嘘です)。



4) Five songs I listen to a lot, or that mean a lot to me:
(よく聞く,または自分にとって大きな意味のある5曲は?)

俺の全人生から五曲かあ。うーん。悩むなあ。

I Feel Fine / The Beatles

 一時期、多分中学生くらいだったかな、ビートルズとカウボーイビバップのサントラしか聞いてない時期があった。椎名林檎とかブランキーとかミッシェルとか、その時ビビっときていたアーティスト達を差し置いて。「中学生だし洋楽の一つでも」と手に取ったのがビートルズだったのだろう。正確なところは覚えていないけれど、現在の自分を鑑みても、充分にありうるなあと思う。

 この曲はイントロが大好きだった。好きな曲は大抵イントロにビビっとくる。この歪むギターはヘロインでへらあっとなった精神が奏でる音を表しているのだ、と親父がいい、俺はそれをすっかり鵜呑みにしていた。

 動機はともあれ、根底にビートルズがあることは間違いなく、我が音楽人生において大変重要な位置を占めているといえるなあ。

Girls & Boys / Blur

 OasisのWonderwallとどっちにしようか迷ったけど、こっち。最近UKって良い意味でヘンなギターポップバンドが流行ってる気がするけど、間違いなく変態ギターバンドのカリスマ。BlurのアルバムはParkLifeが一番よく聴きます。

浜辺 / 曽我部恵一

 ちあきと付き合うちょっと前に、お互いの好きな曲をMDに入れて交換しあったことがあった。たしか十二曲目あたりに入っていて、イントロにビビッときたのを覚えている。タイトルを気にしないで聴いていたから、正直『浜辺』のイメージはないけれど、夕暮れの東京から月の砂漠を歩いているような、すごく視覚的なイメージを喚起する。

 曽我部恵一やスパルタローカルスは、彼女から教わった。歌っぽい歌の世界からちょっと離れていたので、彼女との音楽体験の共有はとても楽しかった。もちろん今でも楽しいよ、ちあき。

家族の風景 / ハナレグミ

 昔から歌を歌うのが大好きで、今でも実家に帰ると一人で海に行って歌ったりする。伸びやかに空気を振るわせるイメージで、俺は声をだす。いやでもやっぱ、自分の体だってのに、なかなかうまくいかないもんだね。だからタカシの声がうらやましくて仕方ない。イヤホンから聴こえてくる歌声に、そっと自分の声を重ねてみたりする。

 いつか子供ができたら、この歌を一緒に歌いたいんだ。いいかなあタカシさん。

ナイト・クルージング / クラムボン

 なんで五曲しか選べないの?という理不尽な怒りがやってきたので、最後はずるっこですが、フィッシュマンズのナイト・クルージングをクラムボンがカバーしてるバージョンです。だって選べないんだもん。

 唐突ですが、クラムボンの三人みたいに、誰かと語り合うように暮らしたい。彼らは楽器を奏でてるんだけど、語り合ってるよね。セッションてそういうことなんだ、と発見したのはIDを聴いているときだったなあ。

 ちあきも書いてるけど、この曲に限らずフィッシュマンズの歌詞は素晴らしい。フィッシュマンズって曲の情報量が多くて、そっちに気を取られてる間に、そっと沁みこんで来る感じ。歌って素晴らしいと思うのは、言葉が沁みこんで来るそういう瞬間、つまり詩でも音でもない、歌を感じたときなのだと思う。



5) Five people to whom I’m passing the baton:(次にバトンを渡す5人)

de ja vu  klimt211さん

写真日和  shiphoさん

かんそう日記  max4sweetさん

④・・・

⑤・・・


音が広がっていきますように。三人にだけど。


俺と死に損ないと女子高生

 問い詰めたわけではない。そもそも責める気なんてさらさらない。だが彼女は少し気まずそうな顔で言った。「朝から心臓が痛くって」



 塾講師のバイトでのことだ。三十分以上遅刻して席に着いた彼女は、最初おずおずと上目遣いで俺と目を合わせた。何かいいたげな視線でだったが、俺はにやにや笑っていた。ほっときゃ何か素敵なイイワケをするんじゃないかと、ちょっと期待しながら。で、飛び出たセリフがコレである。



 なんぼなんでもひどすぎるんじゃないか。いや、まあ俺もひどい。性格悪いです、ええ。でもそりゃねえんじゃねえか。あまつさえ「一限からずっと痛くって」と付け足すに至っては、むしろ俺の心臓がやられてんじゃねえかと。



 が、まあそんないいわけを彼女から引き出してしまった責任は俺にある。忌むべき悪魔を生み出してしまった造物主の気分とでも言おうか。なんとかせねばなるまい。突如沸き起こる使命感に高揚しつつ、俺は言った。「おいおい、心臓って、おまえそりゃねえだろ心臓って」「だって痛いんだもん」「痛いっておまえそりゃやべえぞ。死の淵だぞ。瀕死だぞ」「死ぬもん」「いや死ぬもんていうか、死にません!ボクは死にましぇん!わかる?これわかる?あー、古いかあ、古いかな。あへ、俺空回っちゃった?うへえ、参ったなどスルーですかてへ」「え、バカ?」



「・・・え?」



 絶句することしばし。一瞬飛びかけた意識をなんとかたぐり寄せ、震える唇をかみ締めつつ俺は言った。



「それじゃあ、単語テストからはじめようか」

俺と雨の日とセンチメンタルダイアリー

AM9:05 起床。九時に目覚ましをかけるも、起きられず、五分の二度寝を経てあわてて起きる。脛をぶつける。雨が降っていて、少し憂鬱になる。駅までの道のり、ジーンズのスソが水たまりでびしょびしょになるのを気にしながら歩く。クラムボンを聞きながら、のりのりで歩く。電車を一本乗り過ごしたので、駅で座ってちあきにメールする。そういえば今日のスケジュールはなんだったかなあ。就活かな。雨なのに頑張ってんのかな。スーツが濡れて、ハンカチで服を拭いている姿を想像してへこむ。へこんだことにちょっと笑う。電車にのって学校へ。センチメンタル。


AM10:50 十分遅れて二限の授業に。オブジェと二次元の融合をテーマにシュルレアリスムを美術史の流れの中に当てはめる、という結構途方もないことを扱っている。俺の専門にまったく関係ないので、軽い気持ちで勉強できる。いつかシュウィッタースの作品が見たいなあ、と思った。センチメンタル。


PM0:15 三限に授業があるので、学食に入ろうと思ったのだが、すでに列ができていたので、仕方なく近くのとんかつ屋に向かう。雨だなあ。ジーンズのスソが相変わらず気になる。券売機で五百円のチキンカツ定職を購入。カウンター席に押し込まれるように座る。となりでカツ→味噌汁→ご飯を素晴らしいテンポでローテーション食いしているサラリーマン風男性をじっと見つめる。カツ汁飯カツ汁飯カツ汁飯・・・。チキンカツが乱暴に運ばれてきたので、場の雰囲気に合わせて自分もがつがつ食う。ローテーション食いをマネしようと思ったが、キャベツを省かなければならないことに気が付き、やめる。だってキャベツ食べたいじゃない。センチメンタル。


PM1:00 三限の授業は、フランケンシュタインをテキストに、様々な角度から批評を加えるというもの。コンセプトはよいと思います。思うんだけど、飽きちゃう。仕方ないので窓の外を眺める。そういえば、小学生の時分から、ヒマさえあれば窓の外を眺めていたっけ。今日は雨で、教室から見える中庭にはいろんな色の傘が咲いている。まず目が外を向く。次に耳が、雨の音をとらえはじめる。遠くでビルを建てている音がする。ゴーン、ゴーン、ゴーン。汽笛のようだなあと思った。そうしていつの間にか、心も窓の外に出ていた。センチメンタル。


PM2:40 友達とTOEICの申し込みをする。生協で書類を書いていると、別の友達が旅行の申し込みをしていた。シンガポールに行くそうだ。帰ってこなければいいのに、と悪態をつきそうになるも、我慢する。センチメンタル。


PM3:00 バイトがあるので新宿へ。さくらやホビー館に向かう。三ヶ月ぶりくらいだ。ガンダムが見たくなったのです。雨だったから。センチメンタル。


PM5:00 バイトが始まる。センチメンタル。


PM11:50 バイトが終わる。センチメンタル。


AM0:18 家に帰る。フロにはいる。ゴキブリを叩き潰す。ブログを書く。途中で飽きる。センチメンタル。