第一回・深夜における『リアリズムの宿』 | 世界と日々と君と僕

第一回・深夜における『リアリズムの宿』

 バイト先を出たのがちょうど十二時だったから、終電には若干の余裕があると思ったので、ツタヤに行くことにした。
 込み合う店内を人の間を縫って歩く。目に付いたものを手にとっていく。気付いた時には五本のDVDを両手に掴んでいた。そうして選んだビデオの中に今回紹介する『リアリズムの宿』はあった。


 僕は深夜をこよなく愛する。多分、僕が夜を愛するのは酒を愛するのと同じ理由である。静けさのうちに、自分を特別にしてくれるような錯覚を抱かせる何かを、夜は持っているからだ。
 だがそんな時間にぴったりの映画となると、そうそう簡単に出会えるものではない。ある瞬間、暗闇を見つめる先に全てがしらけてしまう時間がやってくるのである。


 ブログ第一回から随分暗いトーンで始まってしまったが、ようするに何が言いたいかというと、『リアリズムの宿』という映画がその暗闇に一筋の光明を与えるような内容だった、ということである。


 二時間の映画が終わった。ちょうど、暮れかけた公園に静かにともる街灯のように、僕の心にやさしくせまってきたのは、監督山下敦弘の絶妙な笑いのセンスであり、三十路近い凡人達の、バカみたいだけど悲しい大人の青春像だった。


 冒頭のシーンがよかった。それはこんな風に始まる。
 お互い名前だけは知っている自主映画の監督二人が、寒村の無人駅で共通の知人を待ちながら途方にくれている、ものすごく長い尺のシーン。二人はぎこちなく自己紹介をしあうのだが、結局ぎこちないままお互いの中に踏み込もうとはしない。
 この距離感だ、僕は一人つぶやいていた。才能を信じる人間というのは得てしてこういうものだ。こちらから踏み込むなんてことはしない。それはプライドが許さないのだ。
 会話の間も絶妙であり、行間に言葉を詰め込むだけ詰め込んでいる。多分山下監督は頭の中でブツブツつぶやくようなタイプの人間だ。
 


 二人の主人公、木村と坪井。彼らの凡人ぶりはすさまじく、どんなホラーを読むより、僕の胸にはきつく迫ってきた。ペーソスの効いた笑いにも、途中からは無理やり口の端をゆがめて笑っていた。多分泣き笑いに似た表情をしていたと思う。
 それでも、僕がこの映画にやさしさを見た理由はなんだったのか。僕がここで答えてしまうこともできるけれど、むしろ映画のラストシーンを見て欲しいと思う。


 映画について語るためのブログと銘打ったのに、のめりこみすぎて語るのを拒否したくなってしまった作品をいきなり取り上げてしまったことに後悔しつつ、僕のブログ第一回は幕を閉じるのであった。