俺と写真と視線の先 | 世界と日々と君と僕

俺と写真と視線の先

 写真っていうのは、すごくお手軽なものだと思っている。お手軽だからこそ、そこに込められているものが問われた時、困ってしまう。俺はそこにあるものにシャッターを押すことを促されたのだ。そんな説明で誰が納得するだろう。


 案の定、俺の言葉は拒絶された。ある批評会でのことだ。否定したやつは、「俺はテーマをもって写真に向かっている。誰にでも量産できる写真だからこそ、そこにはテーマが必要だ」云々、言っていた。


 その時は明確な反論をしなかった。うまく言葉に置き換えることができなかったからだと思う。ただ漠然と、「目に留まったものを撮る、それが全てだ」とは思っていたのだが。


 そういう風に煮え切らなかった感情を煮え切らないままにしていたせいだろうか、たまたま立ち寄った書店で見つけたある写真集があの時煮え切らなかった思いを言語化してくれたのだ、今日。その写真集は『Childrens』といった。二歳から六歳の子供達三十人程度が、写真を持って町に繰り出し、実際に撮ってきたものを集成した作品集である。


 写真集の話をする前に、俺がどのように写真と向き合ってきたか、ちょっと話そう。


 先述したとおり、俺は写真は撮るものであるけれど、同時に撮らされるものだなあと思っていた。撮る行為は能動的であると同時に、景色、人、物に反応することによって「撮らされている」のだと、思っていた。


 もう少し詳しく述べるなら、俺のいう「撮らされる」とは、我が人生における経験や見てきたもの、無意識の蓄積が撮らせるものだと思っていたのだ。

 つまりそれは自身の視線を体現していると同時に、誰かの視線を受け容れた上での作品であると、半ば諦観を感じていたのである。


 まあしかし、俺の写真は至ってシンプルに、「自らの視線」をテーマにしたものだったのだ。それが本当は誰かのモノマネであったとしても、自分の網膜に写ったものを信じるしかないと思っていた。


 だが、こどもたちの視線はシンプルとかシンプルでないとか、そういうことすら考えていない類の何かだった。表現することを考えていないというか、写真が視線であるということすら念頭にはあるまい。

 撮りたいものを撮りたい瞬間に撮っている。そんな印象を抱かせるのだ。


 自分も撮りたいものを撮りたい瞬間に撮っているはずだ。なのに、子供達の写真と自分のそれを同じものには到底見えない。むしろまったく異質なものに見えるのだ。


 何故だろう。本屋の片隅で、俺はしばし熟考した。ピントの合っていない子供達の写真を見ながらぼんやり考えた。本屋はクーラーが効いていた。とにかく考えた。


 おそらく、そんな曖昧な応え方しかできないのだが、おそらく彼らはカメラを意識していない。シャッターを押すことによって象が写ることを知らない子すら、もしかしたらいるかもしれない。このような観点からもう一度、彼らと自分との違いについて考えてみると、俺はカメラに像が写ることを知っていて、その目的のためにシャッターを押す。だが彼らは違う。まず最初に感情がある。友達と一緒で楽しい。お父さんがいてちょっと怖いけどうれしい。花がきれいetc.......そうしてたかぶった感情に促されて、彼らはシャッターを押す。押しはするが、たとえば露出やピントの調節なんてしないだろうし、ファインダーすらのぞいていないかもしれない。何故なら写真を撮り、その像を残そうとシャッターを押すのではなく、シャッターを押すことは感情の副産物にすぎないからだ。


 感情を写真にされたら、そりゃあかなわないわ。