俺とディスニーと世界の悲哀 | 世界と日々と君と僕

俺とディスニーと世界の悲哀

 皆さん、こんな噂を聞いたことがあるだろうか。「この世には、ディズニーアニメの世界を現実化した、訪れる誰しもを愉快な気分にさせてしまうプレイランドがある」


 賢明な読者諸氏のことであるから、こんな噂に踊らされる有象無象を鼻で笑っていることと思う。かくいう俺も、「まったくそのような噂に踊らされる大衆愚衆はバカだね、足が臭いね」などと思っていたのである。


 だが、俺ははなはだ浅はかであった。足も臭かった。と、猛省すること一週間、この感慨を少しでも多くの人に知ってもらうべく筆をとったのである。


 そう、伝説の桃源郷、ディズニーランドは実在したのである。あまつさえディスニーシーなる施設さえ併設させて。驚愕の事実!恐るべき真実!ああ、神よ!私はあなたに告白しなければならない!ディズニーランドは確かに実在したと!


 だが疑り深いのは人間の性なのだろうか。ちあきにその存在の信憑性をとうとうと語られたところで、到底信じられるものではなかった。ゲートをくぐるその直前まで、はしゃぐ彼女を尻目に、口元に冷笑を浮べていたのである。


 「ガチャン――ニューヨークの地下鉄を彷彿させるゲートを通過すると、そこはワンダーランドであった。」かのノーベル文学賞作家川端康成も、平成の世に生まれたら「雪国」を著す代わりに、ディズニーランドで繰り広げられる悲恋を物語るに違いあるまい。


 とにもかくにも


 ゲートの先は創造を絶するイマジネーションの楽園であった。一挙手一投足、吸う空気、吐く息、身体的動作の全てがこの空間で楽しむためだけになされているような感覚とでも言おうか。そこは何者に制約されることなく楽しむことを許されている空間だったのだ。


 我々は日常様々な制約のうちに生きている。在る学者はそれを「精神の壁」と言った。意識の上で認識される規律、法律、常識、慣習はもとより、無意識の領域にある「あたりまえ」という感覚に人間はしばられているのだと。


 楽しむことに制約があるなんてもちろん考えない我々ですが、この思考停止がやばいんじゃないかと、我思う。「生きていれば楽しい」という考えが精神の壁となって「楽しむことにすら無意識の抵抗を感じさせる世界」という捉え方を排除してしまっているのではないか、と疑ったのです。つまり我々は本当の意味で楽しめていないんじゃないか。だから世界を受け容れていくに従って、つまり大人になるに従って、我々は笑顔を失くしていくんじゃないだろうか、とか思ったのです。


 そんなことを考えたのは、ディズニーシーから帰ってきた一週間後だった。原色の甘い匂いのする世界は思考をとめる。あの世界でもこの世界でも、僕らは何一つ考えることができない。