第七回・再生への痛み『空中庭園』 | 世界と日々と君と僕

第七回・再生への痛み『空中庭園』

                 くうちゅう  

比喩に満ちた映画だった。比喩というよりイメージ、象徴といったほうがいいかもしれない。

 松田優作主演の『家族ゲーム』を参照するまでもなく、この映画は家族の崩壊を描いたものではない。

 2000年初頭、日本において家族はもはや崩壊するものですらないからだ。京橋家に限ったことではない。あらゆる家族がその根にもっている絶望感。家族はゲームですらなくなり、フィクションに成り下がった。あるいはフィクションであることを拒否し、あらゆる家族が家族の形態を維持できなくなっている。どちらにしろ、家族がイメージの世界にしか存在しえないというのは、どうやら事実のようである。

 極論を言ってしまえば、家族は虚構だ。この映画で、「家族の虚構」というイメージは、彼等の団地がある郊外とも重なる。長男がヴァーチャルな地図をハードディスクに描くのは、彼なりに虚構を知ろうとする努力である。自分の属する世界(家―団地―郊外)が虚構であることを確認する作業なのだ。この確認によって、彼は自我を守っているのではないだろうか。また長女が学校に行かないのは、世界が虚構であることを知り尽くし、それを拒否しようとしているからではないか。彼女は世界を拒否しつつも、女であるがゆえに、家族を作ることもできる。そのことに気が付いてしまった。新たな虚構を作ることができることへの、漠然とした不安が彼女を満たしている。父貴史はもっと現実的だ。虚構が虚構であることを当の昔に認め、別の世界に落ち着いている。 

京橋家をフィクションとして想像したのは絵里子だ。ある種の強迫観念というか、トラウマが大きな原因となって、彼女の持つイメージ通りに家族を創ってしまった病的な女。劇中絵里子は自らそのことを知っているし、それこそが絵里子が家族に唯一秘密にしていることなのだ。しかしそのイメージがとうの昔に崩壊していることを我々は見せ付けられる。しかも崩壊は、冒頭でも述べた通り、内包されたものであり、予定調和のようですらある。

 表面的な家族の形態は維持されたまま、内部に崩壊した空虚を抱える家族、それが京橋家なのである。

空虚な営みは、その崩壊がこれでもかと言うほどに露見されても続く。続かなければならない。僕はこの映画がラストに向かい、多分救いのないまま家族は虚構を暮らし続ける、そんな風に終わるのだろうと思っていた。

だが物語の結末は、京橋家が選んだその結末は「生まれ変わり」だった。人は血にまみれ、泣かきながら生まれてくる。クライマックスで描かれる血の雨はまさにその比喩であろう。生まれ変わりの痛みと感情の爆発が描かれている。

ラストシーン、雨に打たれ呆然としている絵里子がインターホンによばれ、ドアを開けて迎え入れたものは、赤ん坊が初めて目にする外界の光だった。生まれ出た証明としての光だ。新しい世界を受け容れたという、自分自身への確認の光だ。

その光がなんだったのか、言わずとも分かるだろう。