交換日記はじめましたこんにちわ。「わたしのすきなこと。
」
俺とちあきと今日のお言葉 vol.2
(ちあきは京都に旅行中。旅先からメールが届く)
Time 2005/11/18 15:08
From 西千晶
Subjec 後になるほど味でる男、玲央くん
「恋のおみくじひいたの~。末吉!!」
(↓写メで添付されてきたおみくじの文面)
「恋愛:相手のひとがらを見届けるまでは軽々しい行動をとらないこと」
もうすでに付き合ってるんですけど、なんか凹みました。
第七回・再生への痛み『空中庭園』
比喩に満ちた映画だった。比喩というよりイメージ、象徴といったほうがいいかもしれない。
松田優作主演の『家族ゲーム』を参照するまでもなく、この映画は家族の崩壊を描いたものではない。
2000年初頭、日本において家族はもはや崩壊するものですらないからだ。京橋家に限ったことではない。あらゆる家族がその根にもっている絶望感。家族はゲームですらなくなり、フィクションに成り下がった。あるいはフィクションであることを拒否し、あらゆる家族が家族の形態を維持できなくなっている。どちらにしろ、家族がイメージの世界にしか存在しえないというのは、どうやら事実のようである。
極論を言ってしまえば、家族は虚構だ。この映画で、「家族の虚構」というイメージは、彼等の団地がある郊外とも重なる。長男がヴァーチャルな地図をハードディスクに描くのは、彼なりに虚構を知ろうとする努力である。自分の属する世界(家―団地―郊外)が虚構であることを確認する作業なのだ。この確認によって、彼は自我を守っているのではないだろうか。また長女が学校に行かないのは、世界が虚構であることを知り尽くし、それを拒否しようとしているからではないか。彼女は世界を拒否しつつも、女であるがゆえに、家族を作ることもできる。そのことに気が付いてしまった。新たな虚構を作ることができることへの、漠然とした不安が彼女を満たしている。父貴史はもっと現実的だ。虚構が虚構であることを当の昔に認め、別の世界に落ち着いている。
京橋家をフィクションとして想像したのは絵里子だ。ある種の強迫観念というか、トラウマが大きな原因となって、彼女の持つイメージ通りに家族を創ってしまった病的な女。劇中絵里子は自らそのことを知っているし、それこそが絵里子が家族に唯一秘密にしていることなのだ。しかしそのイメージがとうの昔に崩壊していることを我々は見せ付けられる。しかも崩壊は、冒頭でも述べた通り、内包されたものであり、予定調和のようですらある。
表面的な家族の形態は維持されたまま、内部に崩壊した空虚を抱える家族、それが京橋家なのである。
空虚な営みは、その崩壊がこれでもかと言うほどに露見されても続く。続かなければならない。僕はこの映画がラストに向かい、多分救いのないまま家族は虚構を暮らし続ける、そんな風に終わるのだろうと思っていた。
だが物語の結末は、京橋家が選んだその結末は「生まれ変わり」だった。人は血にまみれ、泣かきながら生まれてくる。クライマックスで描かれる血の雨はまさにその比喩であろう。生まれ変わりの痛みと感情の爆発が描かれている。
ラストシーン、雨に打たれ呆然としている絵里子がインターホンによばれ、ドアを開けて迎え入れたものは、赤ん坊が初めて目にする外界の光だった。生まれ出た証明としての光だ。新しい世界を受け容れたという、自分自身への確認の光だ。
その光がなんだったのか、言わずとも分かるだろう。
俺と改革とガリガリ君
どーしよー!どどどどーしよー!ガリガリ君当てちゃった!コンビニなのに!
交換してくれんのか?コンビニの在庫とか、レジの計算とか平気なのか?なんかすげえどうでもいいこと気にして交換にいけないよーいけるわけねえよ!だって俺大人だもん!いい年した大人だもん!被選挙権はないけど投票権あるんだもん!郵政民営化より、俺らが考えるべきは年金問題じゃないのかと、マニフェストとにらめっこしながら語ったりしちゃう成人男性なんですもの!
もうだめだ、この棒切れ持って自殺しよう。遺書には「ガリガリ君も交換できないこんな世の中じゃ」的なこと書いてやろう。衆院選の速報出る前に、俺が日本を変えてやる、んだ。
俺と黒蟻とぼくのおもいで
一匹の蟻が、畳の上を這っている。こいつにとっちゃあ、ちょっとした毛羽立ちも大海の大波なんだろうなあ。黒雲立ち込める中、マストにしがみつく蟻。行く手には身の丈三倍はあろうかという大波が迫る。ああ、故郷に残してきた幼虫達よ、俺は逝く!
青いカーテンのおかげで、日曜の朝だというのに深海みたいな色の部屋の中で、ふとした空想がファンタジーとなって俺を放さない。懐かしい感覚だ。十年以上も昔の感覚。当時かぎっこだった俺は誰もいない家で、投げ出されたマリオネットのような格好になってじゅうたんに倒れ臥して、そこから見える風景から想像できるあらゆる世界に逃げたりする子供だった。
いやだ。こんな子供絶対いやだ。
でもなんでこんなこと考えてんだろうな。あまつさえ、なんでブログに書いてんだろう。最近の俺はわからんことだらけだ。
俺は物語を書いている
「まじょのスープ」
まじょのにるスープは、きみょうないろをしている。それはよもぎいろなんかよりずっとにごったみどりいろで、ときたまあおくなったりします。どうじにマグマのようなあかいいろ。それにあのにおい!ひとかぎしただけでくまときつねとからすがどうじにそっとうしたらしいと、りすのおばさんがうわさしていた。
さらにうわさでは、まじょのスープには、さらわれてきたにんげんのこどもがぐちゃぐちゃにとかしていれられているらしい。どうぶつたちは、じぶんのこどもをとられやしないかと、きがきでありません。
でもまじょは、いつからそこにいるか、もりでしっているものありませんでした。そして、そこにあらわれたそのときからずっと、おおなべにみたされたスープをかきまぜているのです。あるときぐうぜんそのようすを見たたぬきのおやぶんは、あまりのおそろしさに、やっぱりそのばにそっとうしてしまったといいます。だってまじょは、いっしんふらんににえたぎるなべをかきまぜているのですから。あまりのぎょうそうに、おとなのどうぶつたちだってたえられなかった。
おとなたちがふるえあがっているのをよそに、もりのこどもたちのあいだではあるあそびがりゅうこうしていました。それはまじょのところにどれだけちかづけるか、というきもだめし。なかでもシマリスのこどもはそのすばしっこいからだをいかして、まじょまで5メートルとせまるだいしんきろくをうちたてました。とくいになるシマリスのようすをみてアライグマのこどもがいいます。おれはだれよりもゆうかんだ、だからだれよりもまじょにちかずいてやる。そうだ、あのおおなべをひっくりかえしてやるさ!
それをきいただれもがあおざめましたが、アライグマはやるきまんまんです。さっそくひとりでもりへでかけてゆきました。どんどんもりをすすんでいくと、あのどくとくのにおいがただよってきます。アライグマは、なにくそ、となおもすすんでいきます。もりがすこしひらけ、まじょのすむたにあいのこやがみえてきました。
まじょはいました。うわさどおりのおそろしいぎょうそうです。しっこくのかみはかいそうのようにみだれてまじょにはりつき、ながいはなはかぎのかたちにまがっています。めはきいろくにごってちばしり、くちはみみまでさけ、よだれをながしています。アライグマはおそろしくなってしまった。けれどおおみえをきったぶん、にげることはできません。
あらいぐまはひとついきをはくと、まじょにむかっていきました。やいまじょめ!もりじゅうににおいをまきちらしやがって!おまえのせいでみんなめいわくしているんだ!いますぐそのスープをすてろ!さもなければおれが―。アライグマはいいかけて、はっとくちをつぐみました。まじょは、そのちばしったきいろいめから、しずかなになみだをながしていたのです。あのおそろしいまじょがなみだを。いったいどうして。アライグマはにげるのもわすれてまじょをみつめていました。するとまじょはにんげんのことばでアライグマにはなしかけてきた。ちいさなアライグマさん、どうかわしのみじめなはなしをきいておくれ。そのことばにせつじつなおもいを感じたアライグマは、おどおどしながらもそこにすわって、まじょのはなしをきくことにしました。
まじょはかたりまじめます。じぶんはもともとはふつうのくらしをしていたにんげんだったこと。げんきなむすめとびょうじゃくなむすこがいたこと。びょうきのむすこのために、かねをぬすんだこと。あるときつみがばれて、すんでいたむらをおいだされ、こどもたちをつれてこのもりにやってきたこと。もりでのくるしいせいかつのこと。ふゆがやってきて、たべるものがなくなったこと。そして、そのスープのこと。
「もりのふゆはながく、つめたかった。かわはこおり、くさはかれた。わしたちはふるえながらよりそって、いくばくもないむぎをわけあってくらしていた。むすこはまたはいえんのほっさがぶりかえして、まんぞくにいきもすえないようなひどいじょうたいだった。
「わしは、むすこがかわいそうでしかたなかった。そしていよいよむすこがいきたえるというとき、なんとかしてあたたかいスープをたべさせたかったんだ。むすこはあたたかいうさぎのにくのスープがだいすきだったから。
「だがうさぎをつかまえるようなぎじゅつを、わしもむすめももちあわせてはいなかった。いきもたえだえのむすこのてをにぎり、わしはないていた。けれどむすめはちがった。『わたしうさぎをとってくる!あさにはおおなべのなかにうさぎのにくをいれておくから、おかあさん、かならずあのこにスープをたべさせてあげるのよ!かならずね!』むすめはそういうと、こやをとびだしていった。おいかけるきりょくもなく、そのばんはねむったんだ。
「あくるひ、おおなべはぐつぐつにえたぎっていて、あたたかいスープができあがっていた。わしはそれをいそいではこんでいって、むすこにたべさせた。むすこはせきこみながらもなんとかそれをのみこみ、うれしそうなかおでいきたえた。
「むすこのなきがらをまえにぼうぜんとしていると、すっかりひがくれてしまった。だがいつまでまってもむすめがかえってこない。わしは、あるよかんにつきうごかされて、おおなべにはしっていった。
「スープにはよくみると、ほそいすじがたくさんうかんでいた。そのつやつやしたすじにはみおぼえがあった。むすめの、むすめのかみのけだったんだ。
「わしはもう、なにもかんがらえられなかった。かんがえるのもやめた。ただただみっかみばん、そのスープをみつめていた。みつめているのにもたえられなくなったわしは、たきぎをあつめてスープをにこんだ。それからは、ぼんやりとしたきおくしかない。おまえがここにくるまでね。ただずっと、このなべをかきまぜていた。なぜかって?このなべにはね、あのときしんだむすこもはいっているんだ。ふたりのたましいがとけあっている。だからこうしてスープをかきまぜつづけているかぎり、あのこたちはここにいるんだ。
「だけどね、おまえがこのなべをひっくりかえしたいというなら、わしはたぶんとめんだろう。なぜだかわからないけれどもね。いや、なんとなくわかっているのさ。わしはもうつかれているんだろう。あいすることにもつかれてしまうことがあるんだなんて、なんびゃくねんもいきないとみとめられないもんさ
ながいはなしでした。アライグマはしんぼうしてずっとすわっていました。けれど、まじょのかなしいひとみをみていると、とてもなべをひっくりかえすことなんてできませんでした。ぼくは、やめておくよ。アライグマはいいました。
「ありがとう。もうおかえり。おまえにはかえるばしょがあるんだから。
まじょはおだやかにいうと、またおにのようなぎょうそうでスープをかきまぜはじめました。アライグマはとぼとぼと、もときたみちをひきかえしていきました。
いまでももりのおく、しずかなたにのちいさなこやのそばでは、きみょうないろのスープをまぜているまじょがすんでいるといいます。そのスープは、あるおんなのこのやさしさと、あるおとこのこのかなしみと、ははのあいのいろをしめしているそうです。
俺が書きたくなった物語
でんきをまもるおとこがいた。
やまからやまへ、うみぞいのきょだいでんきプラントから、くにじゅうのまちにひかりをともすこうかせんを、おとこはもうなんじゅうねんもまもってきた。だからおとこはでんきもりとよばれていました。
でんきもりのしごとはたんじゅんで、けれどかれにしかできないしごと。なぜなら、でんきもりはひどくやせていて、さらにしごとのいそがしさから、もうなんねんもまともなしょくじをとっていなかったので、ほそくふあんていなこうかせんをわたるのにおあつらえむきだったのです。まいにちまいにちとうからとうへ、こうかせんづたいにわたっていって、いじょうがないかてんけんするしごとをくもなくこなしていった。
いったいどんなきもちで、このこどくなさぎょうにみをおいていたのだろう。まぶかにかぶったぼうしから、かれのひょうじょうをよみとることはできないけれど、つらかったにちがいない。そんなかれをささえているのはつよいしめいかんでした。ぼくがいなければこのまちもあのまちも、よるのやみにおおわれてしまう。こどもがやみにおびえてしまう。でんきもりはそうおもっていました。かれは、かえたばかりのフィラメントでんきゅうのようにわらう、こどもたちのえがおがだいすきだったのです。
ところがあるとき、うみのむこうのせんそうが、かれのくにをまきこみはじめた。せんそうは、なんじゅうねんもつづいた。そのあいだも、でんきもりはいっしんふらんに、せんかにおびえるこどもたちのために、でんきをまもりつづけた。
でんきもりのがんばりもあって、やがてせんそうはおわりました。まちはふっこうにむけてうごきはじめていたので、でんきもりはますますいそがしいひびをおくらなければならなかった。けれど、かれはうれしかった。これからは、もっとこどもたちをあんしんさせるでんきをおくるぞ。かれはそうけっしんしたのです。
あるとき、でんきもりはこうかせんのしたで、だれかがうわさばなしをしているのをききました。それはこんなないようでした。せんそうでなくなったたくさんのおとなたちのたましいが、こうかせんのむこうにある。こうかせんをつたっていけば、おとうさんやおかあさんにあえるんだ。
ねもはもないうわさです。けれどそのうわさをしんじたおやのないこどもたちは、どんどんこうかせんをのぼってきます。なんのくんれんもうけていないふつうのこどもたちは、あしをふみはずしたりかぜにあおられたりして、まっさかさまにおちていった。でんきもりはなんどもこどもたちをあしどめしようとしました。でんきもりのいるばしょはたったひとつのなので、ひとりではとてもげんどがありました。それにいつものてんけんをおこたっていると、くにのでんきがストップしてしまうのです。けれどでんきもりは、どうしてもいつものしごとにむかうことができませんでした。どんなにつらいことにもたえてきたかれでも、だいすきなこどもたちがしんでいくことにたえられなかったのです。
こうかせんをわたるこどもはひにひにかずをましていき、ついにはそのくにのこどもはほとんどいなくなってしまいました。てんけんをおこたっていたので、ぼろぼろになったしまったこうかせんにすわって、でんきもりはかんがえていました。ぼくはもうなにひとつするきりょくがおきない。こどもたちのえがおはえいきゅうにうしなわれてしまった。
ぜつぼうにひたるかれを、こうかせんごとオレンジのゆうひがてらしていた。いつまでもてらしていた。
俺があなたに手紙をかくよ
じんせいはー、ながいよね。
とほうもなくながいよ。おっさんになるとそうでもなくなるらしいけど、いまのところ、ながい。それはあんしん。
にんげんてー、ふくざつだよね。
わかりやすいのにわかりにくくて、ふくざつだよ。こころがしんぷるなことばになればいいのに、そうならないことがおおすぎる。
ふれあうってー、たいせつだよね。
とおくにありておもうのは、ともだけでじゅうぶん。おれのそばにはきみがいないといけません。それがるーるなのです。
おれはじんせいのながさにも、にんげんのふくざつさにも、ふれあえないきょりにも、たえられない。
はずだった。
のに
たえてるね、さいきん。なんでだろ。
ちあきといるとそういうことにたえなきゃならんくなる。あたりまえだよ、おれはにんげんとつきあってんだもん。おれじゃないにんげんと。
あきたり、いやになったり、そうなったらにげたらいい。おれはたいていそうしてきた。いいことかわるいことか、たにんにとやかくいわれることじゃないが、まあそうやっていきてきました。
おもいつくままにかいているからないようがぜんごするけど、ちょっとがまんしてください。
おれはちあきをなかせたことがあるね。げんいんは、わすれました(ほんとうはもちろんおぼえています。てれかくしだとおもってくれればさいわいです)が、おれはちあきをなかせた、というじじつがしっかりむねにきざみこまれています。
ひとけのないきゃんぱすのすみで、きみがひとしきりないたあと、おれはそれはそれはたくさんあやまりました。でもあやまりながら、じつはちょっとふしぎだったんですよ。このこはどうしてないているんだろう。おれのために?なんで?
なんだかそのときはほんとうにわからなかった。
でもいまはなんとなくわかるよ。
きみはぼくからにげなかった。いやだなー、とかおもったけどにげなかった。だから、さきになみだがでてきたんだよね。だからおれは、もうなにがあってもにげないよ、きみから。
ちー、おれはきみのようなすてきなひととてをつないでどこまでもいくけんりをもっているんですね。
なんてしあわせなんだろう。
はちがつ じゅういちにち いくらかすずしい、なつのよるに。
俺とタイ人と国際社会への道のり
暑い!なんだこれ!猛暑じゃねえか!どこにキレたらいいんですか俺。気象庁か?気象庁なのか?
いやあ、冒頭からきれっぱなしの僕俺だが、ひょんなことからタイ人と話す機会があった。その彼がおっしゃっていたのだが、東京はタイより暑いらしい。ええ、そらもう暑いんだって。熱帯夜で寝れないんだって。カレーの国からいらした彼がですよ、ええ。そりゃ俺だったキレるっつーの!ふんとにまったくもー。
この暑い中、実は今日某玩具メーカーに面接に行ってきたのである。俺はまだ三年なので、ほんちゃんの就職活動ではなく、インターンシップに参加するための面接だ。タイの彼と会ったのもその集団面接の席でのことだった。
帰り道彼と一緒になって、山手線でぐるーっと大回りしながら話をした。同じ学校だったってのもあるけど、留学生の話って面白くて、やたらと質問をしてしまった。何で日本にきたの?普段はどんな勉強してんの?受験どんな感じだった?英語とかしゃべれるの?などなど。しつけーな俺。
うざい質問にもひょうひょうと(時たま裏返る声で)彼は応えてくれた。だが、子供のような無邪気な笑顔が印象的だった彼が別れ際俺に投げかけた質問が、俺を戦慄させた。彼は言いった。「ふたりはプリクア(キュアと言いたいが発音できないらしい)知ってる?」
うん、知ってるよ。
この、こんなにも簡単なこの一言がどうしても出てこなかった。いや俺もまごうことなくオタクなんですよ。けどね、山手線のホームでね、イエスとは言えませんでしょ。
さ、さあ。わかんないなあ。遠い目で応えた俺の言葉に、きっと彼は悲しい顔をしていたに違いない。国際社会への芽がこうしてまた一つ摘まれたのである。
俺と日曜とどうでもいい関係
俺はそいつのことをあだ名で呼んでいる。あだ名と言っても、苗字と名前をそれぞれ短縮させてくっつけただけの、まあなんの工夫もない呼び名だ。だけどなんとなく響きが気に入っていて、それは多分耳に心地いいからだからだけど、その習慣は今でもずっと続いている。
本当に久しぶりに会ったのだ、そいつと。東南アジアに旅行したとか行ってたけど、別に黒くねえじゃんて、俺は一目見て思ってた。ぼんやり思ってた。
なあ。俺はそいつに呼びかける。上野は天気が良かった。おまえまたへこんだの?
え、なんで?そんな風に見える?晴れてよかったね。
見えるっていうか、まあいつもと変わんないように見えるけど会ったの久しぶりじゃん。つうかおまえが俺に会おうとする時って凹んだ時でしょ。晴れてよかったな。
えー、そんな風に思われてたんだー。うわ、ソース多すぎだねこれ。
いやいや思ってるよ。前会ったときも言ったじゃん。
覚えてない。前って映画見に行った時だっけ。
別にいいけど。説明責任あると思うけど。別にいいけど。ちっ。
なんかむかつく言い方だわ。ソース多いし辛すぎだー。
食えないんだったら俺が食うよ、そのケバブ。
うんでもキャベツばっかだよ。
もぐもぐ。きゃべつうまいなあ。で、ほんとはなんかあったんでしょ?
しつこいなー。
それ彼女にも言われる。
ふーん、嫌われるよ。
け。じゃあいいよバカ。
おおむねこういう感じで、多分あとはどうでもいい話をしてぷらぷら歩いた。そいつといると、なぜかひどく疲れる。バイオグラフィーが合ってないんだと思う。だから一度会えば、そういうえばこういうヤツだった、ああムカツクとか思ってしまう。なのに二ヶ月に一度くらいなら会いたくなる。すげえ不思議だ。
向こうも同じこと思ってたらすげえムカツクなあと、俺は思った。